「フル・フロンタル 裸のサーキュレイター」
芸術家の梅津庸一さんがキュレーションする展覧会「フル・フロンタル 裸のサーキュレイター」に伺いました。
会場は日本橋三越本店本館6階にあるコンテンポラリーギャラリーです。
タイトルに含まれる単語を解読すると、フル・フロンタル(丸裸)、裸、サーキュレーター(循環器)というワードの通り、様々な作品が1つの空間にそれぞれが独立し、また関係性を構築しているような意味合いでしょうか。
本展は、時代も画風も異なる39名の作家、合計64作品が地続きで展示されている展覧会です。
梅津庸一さんの長文ステートメントの一部を以下に紹介します。
【梅津庸一ステートメント】
小さな独立国家の構想画
美術家であるわたしがキュレーターシップを行使しながらも、ひとりの美術家としても振る舞う。内なる美術家と内なるキュレーターとの間で執り行われる密輸と交渉。この二重性については留意しておく必要があるだろう。
(中略)
本展はいわゆる「現代アート」の展覧会ではない。日本における「造形」の変遷や「ありよう」を主軸としながら、「美術なるもの」にまつわる魔術性や禍々しさについて言及するものである。本展はそんな「評価」や「時流」と密接に関わってきた三越を舞台に開かれる展覧会である。現代の作家、日曜画家、物故作家、セカンダリーと呼ばれる美術の市場を循環する作品たちが星座のようにゆるやかに結びつく。実際の空間、そして批評空間でも並置されることのなかった作品たちがクラスタや政治的区分を越えて集う、空想上の美術館のような展覧会。
(中略)
本展のミッションは「美術なるもの」の相対化でも、モダニズムを今さら否定することでもなく、美術における近代から現代に至る「造形」の変遷をあぶり出し「丸裸」にすることである。それは批評空間に召喚しやすい諸条件を満たした、ある特定の作品群や事例によって紡がれてきた既存の美術史の問い直しでもある。本展は既存の言説と親和性の高い、例えば、絵画における「キュビスム」のようなわかりやすい特徴を持つ作例を集めてきて比較検討するような試みとは無縁である。歴史的反省や確固たる制作理論に裏付けられ、構造や方法論があけすけに開示された作品は言説との相性が良く、近年より多くの言葉が与えられてきた。
(中略)
「造形」を起点に作家の制作の現場における想像力や反射神経や動体視力がいかに行使されたのか、を展覧会場に再構築する。また、本展は出展作家だけのグループ展ではない。この展覧会はここに出展していない作家たちの展覧会でもあるのだ。ある鑑賞者は現在、約900種存在するとされるポケットモンスターさながらに数々の作家を頭の中で補完しながら、ある鑑賞者は名もなき作家たちを思い、ある鑑賞者は自分自身と重ねながら、会場を周遊するだろう。
「美術なるもの」とは特定の何かではなく生態系そのものであり、その中での循環する「うごめき」なのだとわたしは考えている。本展ではその「うごめき」を造形の原理と鑑賞者の運動とを同期させることによって提示したい。
春曇りの弱々しい陽光のもと、乾いた風が吹き、長い間使われていなかった用水路には汚水が流れている。起伏のある地形には様々なクラスタが発する花粉が漂い、循環し、滞留している。眼前に広がる風景は、「わたし」の自画像であり、小さな独立国家の構想画でもある。
(2020年4月1日、相模原にて)
老舗百貨店で企画された、見どころの多い展覧会でした。
概要
梅津庸一キュレーション展
フル・フロンタル 裸のサーキュレイター
会期:2020年6月10日~6月29日
会場:日本橋三越本店本館6階コンテンポラリーギャラリー
出展作家:梅津庸一、島田章三、宮崎洋子、シエニーチュアン、長谷川利行、新関創之介、内田一子、トレバー・シミズ、兼田なか、桑原正彦、播磨みどり、岡本秀、山形一生、山本桂輔、COBRA、馬越陽子、合田佐和子、山田優アントニ、有元利夫、高山辰雄、瑛九、坂本繁二郎、青木繁、織田廣喜、麻田浩、續橋仁子、難波田龍起、オノサト・トシノブ、山田正亮、宮脇愛子、菅井汲、星川あさこ、今井俊満、堂本尚郎、わきもとさき、松澤宥、松井康成、川井雄仁、横山大観